前回、感動の着地点を一方的に定めてはならないと書いたところ、さまざまに反響があったので、同じ考えのもとで、ボランティアについて考えてみます。サルサにもボランティアを希望する方がときどき現れますが、受ける側として、いちばん困るのは、自分本位の感動をあらかじめ期待して来る方です。
お金はいらないが感動はどうしてもしたい、だってその為に来ているのだから。
こういう方が、サルサと日常を共にすると、次第に不機嫌になってきます。なぜなら、健常者の社会とまったく同じように、サルサの日常も普段はなーんてこともなく平々凡々と過ぎていくからです。年がら年中感動的な場面が繰り広げられていたら、いっしょにいて疲れてしまいます。みんなふつーに生きているのです。しかし、感動したいボランティアさんは、何か困っているに違いないと思い、その手助けをさせてもらいたいと希望します。つまり、自分よりも劣っている人を助けることで、感動したがっています。ひとりですいすい歩けるメンバーの手をとり、一日中付き添ったりします。手をとられたメンバーは、ボランティアさんの意向に合わせようとします。感動のお手伝いをするのです。
感動というものは、互いの関係性において、偶発的に発生するものです。
それはコミュニケーションの「おまけ」として、ついてくるものでなければなりません。あなたとわたしでビルト・アップ!! 築き上げていくものです。
数年前まで、毎年、タイの小さな村へ遊びに行っていました。そこで耳にした話を紹介します。ある年に、日本のボランティア団体が村を訪れ、友情の木なるものを小学校の校庭に植えていったそうです。これが大変迷惑したそうで、なぜなら、植えただけで帰ってしまったので、枯らしてはいけないし、せめて果実でもなるなら世話もするが、なんでもない木なので、そんなものに時間をついやするほど暇でもないというのです。木を植えたボランティアさん達はさぞ感動したのでしょうが、相手は困ってしまったのです。
つまり、友情の木を植えたら、その地にとどまり世話をしなければ、友情は育たないということです。たいへん分りやすい例話でした。以上!!